さなよくあさまさのブログ

なにやら雑に色々書いてます。

レイ・ブラッドベリとオスカー・ワイルド

2日前のこと、道端でサークルの後輩の1人と出会った。最近、読書にハマっているらしく「オススメの本はありませんか」と聞いてきたので、ちょうどバスで読むためにカバンの中に入れていたオスカー・ワイルドサロメ』を手渡した。私の好きな本であるからこやつもこの沼に落とさなければという意思があったことは認めるが、よりにもよって古本屋で買った岩波文庫版の福田恒存が翻訳した物で良いものではあっても読みやすい物ではないのでやってしまったかもしれないと思っていた。

そして昨日、その後輩と会ったので読みづらいものを貸してしまったと謝罪すると彼は「慣れない文字が多いけど頑張って読んでみるので次会ったとき感想を言います」と返した。以前会ったときよりも善い読書家になっている。聞くと最近は冲方丁天地明察』を読んだと言っていた。きっかけはイラストレータ伊東ライフの配信で天地明察の字をよく見るので気になったそうだ。

配信という新しいメディアが読書のキッカケになるとは良いことだ。レイ・ブラッドベリは『華氏451度』のなかで映像メディアの進歩によって現実の他の物事への興味が薄れ人間関係が薄っぺらいものになっていくことを警告していたが、現在のYouTube、X、InstagramなどのSNSを見ていると生活の中心が現実からこれらインターネットの中に移ってしまっているかもしれない、警告の通りのことが起こっているかもと思える。ブログに書く身でどの口がと思われるかもしれない。

しかし、ネットに限らず人と人との繋がりというのは快楽である。先述の後輩とのやりとりも楽しいものであったし、このブログを開設した経緯も友人と話して楽しくなって始めたことだ。インターネットで繋がりを簡単に得られるようになった現代その快楽に耽溺してしまうのは、仕方ないことかもしれない。実際問題人間は他人と関わらないと生きていけないので、それに悦びを見出すので生存戦略として良いかも入れないがインターネットの簡便さがそれに度をこさせてしまう可能性があるとも言える。

対人恐怖症や、そこまででなくとも人と話すと疲れる、ストレスを感じるという人はいるが、それは情報過多な現代社会では他人への対応の仕方が多様化、複雑化したことでどう対応すれば良いのか分からなくなったこともあるのではないだろうか。

レイ・ブラッドベリのメディア考察はのちのメディア論の先駆けとも言えそうだが、彼は本を至上のものとしている点でロマンチストで感情的だ。

何を言うかより誰が言ったかを人は重要視すると言う。これはメディア媒体の種類でも似たことが言えて、新聞にかかれていることを鵜呑みにする人間やSNSインフルエンサーを信じる人がいたりする。これらはある意味人の思考形態は昔から変わらないことを指している。社会やシステムは進歩しても人間はもう進化しないのだろう。

思いつくままに書くと内容がとっ散らかってしまう。

それもこれも眠る前に読もうとしていた『サロメ』を貸してしまったので代わりに読むものを探さなくてはいけなくなったことが原因だ。

いまも『サロメ』を読む気分だが、無いのには仕方がないので今日は処刑されたヨカナーンサロメ、本となった昇火士モンターグに想いを馳せながら眠ることにする。

眠れなさそう。