さなよくあさまさのブログ

なにやら雑に色々書いてます。

デリダが分からない

私にはいま目標がある。

ジャック・デリダエクリチュールと差異』を理解することである。ジャック・デリダは20世紀後半を代表する哲学者で、エクリチュール(書かれるもの)の特徴に着目し、脱構築差延、散種などの概念で知られる、らしい。文学理論の講義で軽く触れたが、これが難しい。その講義のレポートはたしかルネ・ジラールの欲望の三角形に関することを書いて単位をもらったのだが、講義という簡潔で分かりやすい工夫がなされた1時間半で「脱構築」をちゃんと理解できなかったというのは私の中で引っかかっていた。そこで著作を読んでみようと思い立ち、図書館に行ったのだが、やはり難解に感じてどうにかこうにかひと通り読んだら「今はその時ではない」とうそぶいて本を閉じたのである。それが春ごろの事だった。

だが、このモヤモヤを解消したい、という思いはあったので、いまこそ学ぶべきであると考えた。前回はとりあえず著作を読んだのがいけなかった。やはり、入門とか解説とかを読むところから始めるべきだろう。

ところで私はこの「入門」という言葉に少々トラウマがある。高校生の頃「哲学」という言葉に惹かれ、倫理の教科書を読み漁っていた私は図書館で三木清『哲学入門』を手に取ったのだ。入門という文字は教科書的な簡潔さを彷彿とさせるが、これは哲学は哲学でも日本を代表する哲学者西田幾太郎の哲学を述べるものだった。確かに難解な言葉はなかった。用語の説明もあった。しかし概念自体が難解であった。今でも高性能とはいえない私の脳みそがパンク状態になったことは言うまでもない。ただ、哲学というものが簡単に説明できるようなものではないことだけはわかった。

そして、私は今日書架でこんな本を見つけた。

林好雄 廣瀬浩司『知の教科書 デリダ講談社選書メチエ 2003年

その序文にはデリダのこんな言葉が引用されていた。

「私が難解だという非難は、基本的に誤っています。私より難解な哲学者は山ほどいますよ。それに、私がただたんに難解だとしたら、大したことではないでしょう。私を難解だと非難する人たちは、正確に読解する作業をしていないか、それとも、そのことが充分にわかっていながら初めからそれを拒絶した方がいいと考えているかです。私は、明快さによって自体の複雑さが損なわれないかぎり、明快であるために私にできることは何でもしています」

私は死んでしまった。

一応、著者はこのあとしっかりと「正確に読解」できない原因を分析して、その解説に乗り出すのだが、デリダの言葉は読もう読もうと言って半年も本を手に取らなかった私にはクリーンヒットである。

なんであれ本を読むと自身の心臓を鷲掴みされる経験があると思うがデリダの言葉はまさしくそうであった。ダメージを回復するためにもこの本を読み、もう一度『エクリチュールと差異』を読み返したい。

読書体験はこういうことばかりである。

今日も楽しい!