さなよくあさまさのブログ

なにやら雑に色々書いてます。

風呂場で考えること

ふとこんな言葉が浮かんだ。

構造主義は、科学史でいうところの相対性理論かもしれない。

構造主義というと一昔前に人文学の広範な範囲で用いられてきた考え方で、レヴィ=ストロースジャック・デリダミシェル・フーコーなどといった20世紀後半を代表する学者が用いていた。大雑把に一言でいうと社会や文化に見えない構造が存在するとしてそれを分析する考えである。おおよそ、文系の学問と思われる学問で構造主義の影響を受けなかったものは無いとされているが、これの影響力を例えるとやはり人文学における相対性理論である、と思われる。似ている点として相対性理論以降もニュートン力学が潰えなかったように、構造主義以降も解釈学や作者論、などそれぞれの分野の以前の研究方法が消えなかったことも言える。当たり前な気がする。100年続いた研究分野が消えるわけなかろう。まだ新プラトン主義もヘーゲル研究も続いてるんだぞ。

だが、構造主義の最も素晴らしい点はその科学的な手法であり、要素を厳密に分類し構造を探るというのは化学者が分子構造を研究したときと似た手法、なのかもしれない。高校化学の成績は酷かったのでこの認識であっているか分からない。

構造主義はどの分野でも似た手法である言い切ることができるが、近年のポスト構造主義と呼ばれるものは統一的なまとまりがあるわけではそれぞれの分野でそれぞの学者がそれぞれの手法で発展させているのは、相対性理論直後の化学史の混沌具合、ひも理論などの新たな試みなどと似ている気もする。

そこに相関性を見つけたからといって何があるというわけでもないけれど、私は「〇〇における〇〇」という文言が好きすぎて風呂場でそんな文ばかりを思いつくのだ。思いつくままなので理屈が足りない。よくない。けれど関係ないものを関係づけるのは魔術的思考であり、文化を生み出すのはいつだってその思考であるからもしかするとこのブログを読んだ人がなにか名作を書くかもしれない。書かなくてもアイデアは生まれたことに意味がある。アイデア未満だけど。

賢くなりたくとも努力と余力と気力が足らない。辛い人生だがそれなりに生きねばならない。

なんだか夏目漱石草枕』を思い出す。「ラオコーンによれば芸術とは、いやどうでもいい」と画工は芸術論を語るとき他人の言葉を用いようとしない。それが眩しくてしょうがない私だけれど、漱石のユーモアな気もする。他の研究による補強がない理論とは妄想以上かも分からない。説得力があっても蓋然性がない。想像の中では無敵だけれど現実に持ってくるとひどく弱くなる。想像ばかりの画工は心の声と現実の言葉の量にかなり差がある。そして現実の声はおおよそ変人で意思疎通ができてるのかできてないのか分からない妙なことばかり言う。

風呂場で思いついた「構造主義とは科学史における相対性理論である」という言葉には中身がない。葡萄と定規を比べても優越はつかない。関連性が無さすぎる。これもそういう類だ。魔術的である。
今日もそんなことを考えていたらシャンプーを2回してしまって頭から強くメリットの香りがするようになってしまった。非人情がすぎたかもしれない。