さなよくあさまさのブログ

なにやら雑に色々書いてます。

幽玄 あるいはお米

先日、友人らと遊んだ帰りにやよい軒にご飯を食べに行こうという話になった。しかも先輩が奢ってくれるという。私がブログを頑張っているからスパチャなのだと言ってくださってまったく恐縮の限りだった。先輩は学校やサークルの先輩というわけではなく、年上なので心の中で勝手に先輩と呼んでいるのでこの記事を読んだ友人がいたら驚かれるかもしれない。

私は何を食べようかと悩みに悩んで、最終的に味噌カツ煮定食を頼んだ。遠慮をせずに味噌汁を豚汁に変更し「ゴチなります!」と頭を下げてから店内に入った。

味噌カツ

なぜこれを頼んだのかといえば、食べたことがなかったのと100%美味しいことがわかる造形をしていたからである。熱々の鉄板に置かれた肉は美味しいに決まっている。実際美味しかった。カツは美味い。これは永久不変の真理である。味噌も美味い。これは天地開闢以来の法則である。これが合わさると美味いという「事実」だけが存在することとなる。すなわち味噌カツ煮定食とは宇宙なのだ。

何が言いたいのか分からなくなってきたから改めて言うが、美味しかった。

私は人生で初めてご飯を3杯もお代わりした。小盛りでだったけど。ご飯の進み具合が異常だった。カツを一切れ食べるのに箸が3回米を運んでいた。先輩には感謝の念が絶えない。まじで美味しかった。読者は人生で初めて食べた味噌カツ煮を覚えているだろうか?私は忘れることができないだろう。衝撃的な体験だった。

食事中、先輩がパチンコで大勝ちした話や久々に会った友達の話を聞きながら私の脳裏には「幽玄」という言葉が浮かんでいた。「古今和歌集」などで作品の評論に使われた言葉であり余情がある様や言葉にできない絶妙さを表す言葉である。私は味噌カツ煮定食を平らげると空の茶碗と味噌が少し残った鉄板を見て、不思議とその言葉が浮かんだのだ。

米一粒残らない茶碗には何か言葉にできない物がある。それは食事の感動の残り香であり、それが終わったこと、満足したことへの情である。これは食事に感動が大きかった故の情である。

食事とは生きる上で必要なことであると同時に文化であり表現であり悦楽である。私はその事実に気づくことができたのは、奢られたという事実があるスパイスになっていたこと、また初めて食べた感動であることなどと様々な要因があるだろう。ただ言えることはやよい軒は米も美味いので素晴らしいということである。

奢ってくれたK先輩ありがとうございます。