さなよくあさまさのブログ

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魔術と科学

魔術、と言う言葉を聞くと漫画やアニメ、小説について思い浮かべるだろう。あるいは童話や中世について想いを馳せるかもしれない。

だが近代に関して言えば魔術は一種の思想や文化復興運動の側面が強く、現代日本人が思い浮かべる火球を出したり傷を癒したりするものとはかなり趣きが異なる。オカルト学、オカルト思想はただの妄想や創作のネタではなく、社会構造への疑問や問いかけが多いのだ。

例えば、魔女と翻訳されるWiccaはネオペイガニズム運動、キリスト教以前の宗教の復興を目的とした集団に端を発している。科学が発達し、キリスト教への疑問や信仰のあり方、道徳心の存在の模索の一つと言えるだろう。

また、よく創作で登場するアレイスター・クロウリーが創ったセレマなどの儀式魔術は新プラトン主義の流れを汲みながらカバラ(広義のユダヤ思想)を中心にエジプト神話などを取り込んでいる。古代哲学、思想の復興、ルネサンス的な側面があると思われる。

これら近代魔術の多くは19世紀から20世紀ごろつまり、科学が持て囃される時代になってから創始されていった。つまり社会状況の変容が新たな思想や組織を生んだ一例であると言えるだろう。サルトル実存主義ソシュール記号論から始まる構造主義などと経緯は似ていると言えるのではないだろうか。言い過ぎかもしれない。ある魔術師は「魔術は最高の学問である。実現しないことを除けば」と言っていたと聞いたことがある気がする。オカルト好きが高じて一時占い師をしていた兄が言っていたが気がする。仔細が間違っているかも。だが、現実に即した新たな信仰、思想はその人の意思を強化するだろう。実のところ、人間は生きる上でブッダを信じようが、イエスを信じようが、ムハンマドを信じようが、ヘーゲルを学ぼうが、ラカンを学ぼうが、アレイスター・クロウリーに学ぼうが、より好く生きようとすれば生きられるのである。だが、それを選択できるのは現代の特権であるし、情報化社会だからこそ様々な学びを得られるのだ。近代以前なら異端者は排除されたが人文主義と科学の進歩は思想の自由にも及び、様々な運動が起こった。その動きの一部として魔術があり、創作作品などで消化されていくというのは面白い。

また、人間は儀式やまじないを文化の一部、思考パターンとして持っている。フレイザーが魔術的思考として分類したものであるが、これらは科学的思考と相反するものとされる。近代魔術の理屈は根本的に魔術的思考をもって学問へと昇華したものと考えられるのではないか。そう考えると、近代魔術が創作の題材にされたり現代でも活動が続いているのは、魔術的思考を持って生きる我々にとってそれが納得しやすいもの、説得力が高いものだからかもしれない。

今日は衒学的になっちゃった。