さなよくあさまさのブログ

なにやら雑に色々書いてます。

ショートショートショート

ショートショートは明確な定義がないが2000字か4000字程度の長さの小説である。

短編小説は定義が広いが4000字以上30000字以内くらいだろうか。

ショートは短編を表しているから単純に考えると「ショート」の文字が増えるたびに10分の一程度に文字数が減るといえる。

つまりショートショートショートは200字程度。X(twitter)で見かける140字小説がちょうどこの長さくらいか。

ショートショートショートショートは20字程度。ほぼ俳句。

ショートショートショートショートショートとなれば2文字程度。頑張って5文字か。「ああ」とか「魚」で終わる。

ショートショートショートショートショートショートともなれば0.2文字程度なので、母音が入れられない。子音とか。もう入力できない。kとかであっても一文字だから。

ショートショートショートショートショートショートショートにもなれば0.02文字程度なのでインクのシミか。

ショートショートショートショートショートショートショートショートは0.002文字程度。も視認できない領域であり、分割された記号ではなく微かなインクの匂いが紙に付いている。

ショートショートショートショートショートショートショートショートショートは0.0002文字程度。そろそろ文字を「書く」領域ではなく、一つ二つのインクの粒子でもって紙自体のコンテキストで何かを読ませる領域。

ショートショートショートショートショートショートショートショートショートショートともなれば0.00002文字程度。1文字の20000分の1ともなればすでに量子論の法則に入る。「読む」ためにはインクから発する原子の位置を特定したときと原子の運動量を測定したときで二つの情報が入りそれが物語を表す。

おお!文学の可能性!不確定性小説!

頭痛がひどいとこんな感じのアイデアが浮かんでくる。今日はもう休むべきかもしれない。

Xのアイコン、画面にひびが入ったかと思ってびっくりしちゃうよね

私はTwitterとかXとかいうSNSをよく見る。

なので今日はそれを眺めてふわっと考えたりした役体もないことを書いていく。

X、そこは短文と画像とで構成された情報の氾濫、あるいは人間の思考の断片の断片の断片

情報量が制限されることで呟きは次々と流れては消えていきそれはまるで聴覚情報のような視覚情報、話されたものと書かれたものの中間のような働きを見せているのか。全く新しいものであるSNSというメディアは、ラジオやテレビのように新しい認知や思考を生み出したと思われるが比較的幼い頃からそれに接してきた私にはそれが具体的どういうものなのか考えることは難しい。私は文字を持たない生活が想像つかないようにSNSがない生活が想像つかないのだ。現実に生きている人間でも年嵩の者はSNSなんてない生活をしていたし、今でもそうである人はいるというのに!

そんな感じでメディア論とか面白そうだなと思っている今日である。

 

先述したように私はX(Twitter)を見ることが習慣付いてしまっているのだが、そこで見るものといえば漫画や映画、ソシャゲの情報やらニュースやら短編小説や漫画、現実での友人の呟き、と言った感じである。あまり自分では呟かない。無限いいねマシーンである。いまではポストというらしいツイートというやつは個人の妄想が出ているものがあったりして面白い。私がフォローしているアカウントに、ほぼ毎日シャーロック・ホームズジョン・ワトソンについての妄想、解釈をつぶやく素晴らしい人がいる。今日も「ワトソンはかせ4歳」と物語をつぶやき、FGOのホームズとワトソンに関する妄想を元気にツイートしていて面白い。私はシャーロックホームズは偶に読み返すくらいに好きなのだが、こういうホームズの妄想を語るアカウントのおかげでまた読み返したくなっていると思う。

小説にしろ漫画にしろなんであれ作品は完結するもので完成するものであるが語り継がれることでコンテンツの補充がなされる。未だにホームズを題材にした作品があるのは100年前に完結したホームズの物語について感想、妄想、解釈を語り、継いでいこうとしたオタクたちのおかげなのではないだろうか。現代のSNSは発信がお手軽な分、なにかを語り継ぐことに優れているのかもしれない。

今日、Xを見てみるとDLsiteの過激な表現の言い換えに関するつぶやきがちらほらみえて、ひよこババアとかどうぶつなかよしプレイとかいう言葉が並び、何故か『1984年』を思い出してしまった。劇中で登場するニュースピークは言語を削っていくことで人の思考を削るためのものだった。言葉というのはただの記号なのであらゆる意味を内包できてしまう。

言葉の変容は現実によく起こる。「サカナ」と聞けば水中を泳ぐ「魚」を真っ先に思い浮かべるだろう。しかし「魚」はもともと「うお」であり本当は「肴」酒宴で出される食べ物を指す言葉だった。しかし、昔よく魚をあてに酒を飲んだので「魚」の読みは「サカナ」というのが定着したのだという。

未来、もしDLaiteの言い換え言葉が定着してしまいエロとこれらの言葉が結びついてしまったら、動物園とかにあるどうぶつふれあいコーナーとエロを繋げる人間が出たり、幼稚園とかでひよこ組などの名前がが「不適切な名称」として無くなったりしないだろうか、なんて妄想していると同じようなことを考えてる人のつぶやきがたくさんあって笑った。

SNSを見ていると色々な情報が流動的に流れてくるので面白い。思考も情報と一緒に流れ流れてしまうが、それはそれでアイデアのキッカケが生まれて楽しい。

今日、Xで流れてきたつぶやきで弓を使いすぎたために指が変形した青銅器時代の女戦士の遺体が発見されたというニュースのリンクとともに、日本の鎮西八郎、ウェールズの長弓兵そうだったらしい、というものがあった。それを見た途端思ったのだ。

中世やナーロッパを舞台にした探偵ものがあったら「軍の長弓兵の方が一体どんなご依頼でしょうか。...なぜ分かったか、ですか?そうですね。左手を前に出してみて。ほら、指が変形しているでしょう?これは日常的に弓を扱う人の特徴です。しかし、狩人ではない。狩人は森の中を歩くため独特の静かな歩き方をします。あなたはさきほど靴で音を立てて一定のリズムで歩いていた。兵士が行進するときの癖です。そしてあなたはくたびれてはいますが小綺麗な仕立てのいいシャツを着ておられる。生活に余裕があるんですね。退役していたのなら年金はあれどかなり収入は減る。服にかける金は真っ先に削るでしょう。その髪と着こなしを見る限りあなたはお洒落に気を使う人間ではないようだから。つまり、あなたが国王陛下のもとで軍役に励む長弓兵であることは明確です」みたいなセリフが作れるなと。

こういう一場面だけ一セリフを書くの楽し

 

思考放棄

 

 

鼻がぐずぐずすぎて病院行こうと思ったらスマホの調子が悪かったようだ。電話口で何を言っても「お客様?もしもし?」と相手は聞こえないようだった。「私が二回目の受診なのですが...」と言ってみたところで「切りますね」という言葉とともに電話が切られた。

そのあと掛け直したが全然取ってくれない。迷惑電話だと思われたのだろうか。

かなしけり

今日はシチュー食ってねます。

 

生活圏の認識について

わたしの認識できる空間というものは半ば視界に入れることができる空間であると言える。なにを言っているのかと思われるかもしれない。人間が視界の外の物に対して認識が疎かになるのは多くの場合言えることだしちょっと意味は違うが「百聞は一見にしかず」である。

例えば、こんなことがあった。

わたしは今日、味噌汁でも作ろうと冷蔵庫の野菜室を開いた。1番上には鰹出汁の袋が覆うように鎮座していてその横からタマネギはチラチラと見える。そのまま野菜室を閉めて冷蔵室を開く。すると、卵やら水やらが並ぶのが見え、ふと収納スペースに炭酸水が転がっているのが見えた。中身はコップ一杯ほどか?。いつ買ったのか考えてみると1ヶ月は前である。慎重に炭酸水を手に取りキャップを開けてみるとなんの抵抗もなく開く。炭酸は抜け切っていた。当たり前だ。飲まないのは勿体無いのでひとまずテーブルに置くと、炭酸水のペットボトルがあった場所の後ろにラップが巻かれたタマネギの4分の1があった。一体いつからあるのか。手に取ってみると少し萎びていて真ん中が緑がかっている。今にものびようとして力尽きたのかのようだ。

このように冷蔵庫の奥にはわたしが認識していなかったものたちが多く存在した。視界の外、ペットボトルをどかしたりしなくては見れない場所には深淵が存在するのだ。残念。早急な改革が必要である。可及的速やかに改善するべきだ。



まあ、うん

 

 

冷蔵庫から発見した食品は美味しくいただきました。タマネギは味噌汁に入れて、元炭酸水はいまウィスキーの水割りに。

書きながら飲んでいます。

なかなかです。

偶然

今日、友達と会ったら昨日のブログのことは指摘されました。どうやら浅草寺でひいたおみくじは吉だったみたいです。そのときに「前ひいたのと同じだ!」と騒いだのでわたしの今年のおみくじ歴は「吉、吉、小吉」みたいです。

ちょっと上がったと思っておきます。

運命

先日、近所に神社があるので行ってみた。わたしは正月くらいしかお参りしたことがなかったので、作法もうろ覚えであり、お賽銭を入れたら2礼するのか2拍するのか分からず40円を入れた後ワタワタとしながら「無病息災」と祈った。毎年新年に復習しているのに咄嗟に思い浮かばないものだ。境内にはまばらに参拝者がいてハッチング帽を被った老爺、杖をついた老婆、女子高生のトリオなど様々である。信心深いのか願いごとがあるのかすれ違っただけで分かるわけがないが、お賽銭を投げ祈るという行為を行うのは同じである。全く違う願いを持つ人々が全く同じ動作をする場所というのは不思議な感覚を覚える。神社という場所は何処でも不思議な雰囲気があるが「祈り」という生存活動から切り離された行為を行うための場であるからかもしれない。

 

わたしはお賽銭を投げた後おみくじを引こうと思い立った。初詣に行けば必ずおみくじを買うのでその延長である。今年は初詣できた近所の神社と旅行先で行った浅草寺でおみくじを引いたので今年3回目のおみくじだ。フォーチュン。100円を入れて慎重に箱の中からおみくじを取る。パリッとかるく糊付けされたおみくじを開くとこう書いてあった。「小吉」

わたしは強い衝撃を受けた。この文字を見るのは今年で3回目だからである。

そう今年引いた3回のおみくじはどれも「小吉」だったのだ。細かい部分に違いはあったが全て3回引いて同じ「小吉」

どこかの誰か曰く「1度目偶然、2度目奇跡、3度目必然、4度目運命」らしい。

....仮面ライダーキバのセリフだったわ。

つまり、わたしの小吉は必然である。今年のわたしは小吉の人だ。頑張り次第でどうにでもなる。なかなか良いのではないだろうか。

今度またおみくじを引いてみようと思う。ここまできたら運命となるか試したくなってきた。

発掘されしトッポ

夕方になりコーヒーを飲もうとブレンディの瓶を開けると中身がほとんどなく、逆さに振っても人の底にくっついたコーヒーの粉は全く落ちてこない。確か未開封の袋があったはず....と思い引き出しを開けてみると、トッポがあった。普通に売っている箱である。母は菓子をあまり食べないので私が買ったはずだがいつ買ったのか。わたしはブレンディの中身を大体1ヶ月ほどで飲みきるので一月前か?賞味期限を見ると来年の12月。食える。下にはブレンディもあった。

現在、トッポとブレンディでブレイクタイム。

おいし